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『ファジー「theirs」』- 劇評 -

本当に解体されなくてはならないのは “家”ではない

評:丘田ミイ子

「お前まだ自転車乗れないんだ、だっせえ」
保育園の行事の帰り、なぜか男児ばかりが集まった園庭の一角で息子がクラスメイトにそう言われたことよりも、その後に息子が小さく放った一言に私はひどく動揺していた。
「まだオムツしてるくせに」



ダンスやファッションショーなどの要素を演劇に取り入れ、ジャンルレスな創作をするTeXi’s。谷崎潤一郎の『春琴抄』を原作に、現代におけるコミュニティの様相や他者との対峙を描いた『夢のナカのもくもく』や、葬儀場に見立てた会場で3人の登場人物の生きる社会やその暗部や苦しみを掬い上げた『Oh so shake it!』など、これまでも独自の視点で現代社会を見つめる作品群を発表してきた。
そんなTeXi’sが今年6月より始動させたのが3部作『ファジー』だ。「男女二元論が生み出してしまっている加害性」について考える通年プロジェクトで、その1作目となる『theirs』(作・演出:テヅカアヤノ)がアトリエ春風舎で上演された。

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劇場に入ってまず、舞台空間に目を奪われる。TeXi’sの公演では毎回そうなのだが、「情報の多さ」という点で本作のそれはとくに際立っているように感じた。ラックにかけられた洋服、頭上に光るミラーボール、おもちゃ、ぬいぐるみ、ボール、点在する椅子、三角コーン、その中央にあるのが「家」であることは、劇中で俳優が組み立てていく中で気が付いた。
登場人物となる4人の俳優(上沢一矢、新垣亘平、黒澤多生、松崎義邦)は互いを「あげあげ」「こーちゃん」「たおにゃん」「よっちゃん」というあだ名で呼び合い、ある時は子どもになって、観ているこちらの体が疲れてしまうほどの躍動を以てその中を走り回り、またある時は大人になって、やはり観ているこちらの心が疲れてしまうような主従関係を忍ばせながらその家の解体作業員のように振る舞う。
二つのレイヤーを往来し、時に錯綜させながら描かれる一つひとつのシーン。その風景を前に私が感じたのは、やはり疲弊であった。しかし、それは私自身から生じた疲弊ではなかった。「男の体であること」によって自ずと強いられる何か。背負わされる何か。「そこから距離を取りたい」と思う者がそれをスムーズに遂行できないこと。そういった、言うなれば体育会的プレッシャーから起因する疲弊が女の体である自分になだれ込んでくるように感じたのだ。

本作のそういった描写において最も象徴的かつ重要な役割を担っていたのが「家の解体」である。大人のレイヤーではいわゆる棟梁的な立場である人物が子どものレイヤーではその家が壊されることを頑なに拒否したりする。また、これはTeXi’sの過去作でも必ず明言される重要なセリフでもあるのだが、本作でもある人物が「今日、今からここで起きることの全てについて、僕は、僕のことを僕といいます。俺と言う時もあります。他の俳優も全て、私と言ったり、僕と言ったり、俺と言ったり、そのほか、自分のことを様々に表現しますが、僕のことを男、だと思って欲しくないんですよね」と観客に向かって告げたりもする。他にもこんなセリフがある。
「僕は、僕が、僕というだけで、おとこになってしまう」
しかし、そういった男性性への「反発」、もっと言うならば、トキシックマスキュリティ(有害な男らしさ)への「抵抗」、さらに言うならば、そんな社会への「問題提起」が劇中で何らかの形で実を結んだり、何かしらの目的を遂げることはない。それどころか、そのほとんどがそれよりも大きな声や動き、つまり、フィジカル的により力のあるものに吸い取られていってしまう。その度に私は疲弊し、絶望を重ね、しかしそのことを見つめ続けることから逃れたくて、舞台上のぬいぐるみにふと目を向け、その数を数えたりして、「キリンのぬいぐるみが5つもあるなあ」なんて、非現実へのトリップをしてしまう。これは、TeXi’sの劇作においてテヅカ自身がとても大切にしていることで、過去のインタビューで「目の前で起きていることのみでなく、劇のどこを見てもいい」という旨を明言していた。そんな文脈もあって、無遠慮に、しかし、やや意識的に私はそういったトリップによって体に流れ込んでくる疲弊を和らげながら本作の観劇を終えたのである。
しかし、そのことは皮肉にも私に「自分が女性であること」のある種の特権を握らせることにもなった。男性が男性性によって強いられ、背負わされるものについて知ってはいても、私がこの体でそれを経験することはほとんどないからである。しかし、無縁ではあっても、決して無関係ではない。そういった前時代的な規範を未だ規範とたらしめる様々な悪しき慣習、トーンやマナーが世界に染みつき浸透しきっていることが招く多くの諸問題。そこには当然、男性から女性に対する加害や社会における女性への差別も含まれる。「大きな声や動き、つまり、フィジカル的により力のあるものに吸い取られていってしまう」その様相は、まさに今現代のそこかしこで起きている、性別問わず、誰しもがその被害と加害いずれもの当事者になる可能性のあることなのである。
そのリアリティにまさに社会の課題の多さを握らされ、「男女二元論が生み出してしまっている加害性」や「男性が背負っている加害性」、そして、「誰もが持ち得る普遍的な加害性」を考える、考え続ける必要性を手渡されたように強く感じた。

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『theirs』はとにかくうるさく、騒がしい劇である。そして、うるさく、騒がしいものにかき消されているものの存在を改めて知らせる劇であった。その反転に気付くところから何か変わることはあるだろうか。いや、変えなくてはならないのだ。今を生きる上で、そして、それよりも先の後世を子どもたちが生きる上でも。私は本作を一人の女性としてだけではなく、(その後本人の性自認が変わる可能性があることを前提とした上で)男児を育てる一人の親として見つめざるを得なかった。解体されゆく家を眺めながら、「本当に解体されなくてはならないもの」に手先が触れたような感触があった。それは「家」そのものではなく、まずは家の中で大人である私が、親である私が解体しなくてはならないものだった。


「お前まだ自転車乗れないんだ、だっせえ」
息子がクラスメイトにそう言われたことよりも、その後に息子が小さく放った「まだオムツしてるくせに」という一言に私はひどく動揺していた。
その理由を、私は本作を通じてより考えるようになった。
5歳男児ですらすでにしっかりと手にしてしまっているフィジカル的優劣を競う精神に、体育会的プレッシャーをまざまざと感じるそのやりとりに、私は「男性が背負っている加害性」の芽を見つけてしまうとともに、それを否応なく背負わせてしまう社会の、世界の構造に途方に暮れたのだと思う。そして、何より、その芽を摘むためにかける言葉を、起こす行動を自分が大人として、親として持ち合わせていなかったことを突きつけられたのだ。

あの日、私が息子に言えたのは、「人を嫌な気持ちにさせること、恥ずかしい、悲しい、辛い思いにさせる言葉を言ってはいけない」ということだった。至らなかった。何よりも先に、オムツをしていることは恥ずかしいことではないということを、自分と異なる状態や状況にある人を排してはならない、ということを伝えなくてはならなかった。たとえ、まだその言葉の意味が分からなかったとしても、そう言わなくてはならなかった。言い続けなくてはならないのだと思う。そして、同時に人前でコンプレックスを刺激された息子の傷をも取り除かなくてはならなかった。自転車に乗れないことだって当然恥ずかしいことではない。だけど、あの瞬間、息子は被害を受け、それを加害で返した。さもそれが当たり前であるように。そうしなければ、まるで何かを保てないかのように。
そのどちらもの芽を摘み取ることの難しさ、「本当に解体されなくてはならないもの」の果てしなさを抱えながら、私は本作を観ていた。だから、キリンの数などを数えて目を背けたくなったのだ。今になってはっきりと気が付いた。家の中を息を切らしながら走り回る4人の「男の子」とされた子どもたちを、汗を流しながらその家を解体する4人の「男性」とされた大人たちを、喫緊に見つめる必要性が私自身にあるということに。

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