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『ファジー「ours」』- 劇評 -

『等しくずるい私たちが地球で生きていくために』

評:丘田ミイ子

『本当に解体されなくてはならないのは“家”ではない』

これは、「男性の背負っている加害性」をテーマとした前作『theirs』の上演後に私が寄せた劇評のタイトルである。

私は前作の中に、そして、その風景から派生して日常風景の中に、6歳になったばかり我が子ですら手にしてしまっている加害性の芽を見つけて愕然とするとともに、それを否応なく背負わせてしまう社会の、世界の構造に途方に暮れた。

無論、そんな私も社会の、世界の一部であり、責任の一端がある。

なにしろ私はまさに今この瞬間も男児と女児を育児する親である。

つまり、その芽を摘むためにかける言葉を、起こす行動を自分が大人として、親として持ち合わせていなかったことを真っ向から突きつけられた作品であった。

それゆえに、劇中で描かれた「家の解体」をする以前に、家の中で子を育てている自分が自身の中で解体せねばならない認識に手先が触れたような気がした。

「家の解体」はすなわち「家父長制の解体」に紐づいていると解釈したのだが、

それ以前に「家父長制とはそもそも何か」、「どこから触れて解きほぐしていかなくてはならないのか」という根本的な思考をまず重ねなければならないと感じたというわけである。

そんな前作の観劇と劇評執筆を経て、私は本シリーズを一人の女性としてだけでなく、

二人の子どもを育児する親として、未来を生きる子どもたちに向けた視点を以って見つめざるを得ないと感じた。

そして、今もなお喫緊にその必要があると強く感じている。

そのことをここに前置きした上で、続くシリーズの劇評を書き進めたいと思う。

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TeXi’sの作品を初めて観劇した方、また今後の作品で初めて観劇する方に向けて、その歩みも共有しておきたい。

谷崎潤一郎の『春琴抄』を原作に、現代におけるコミュニティの様相や他者との対峙を描いた『夢のナカのもくもく』、

葬儀場に見立てた会場で3人の登場人物の生きる社会やその暗部や苦しみを掬い上げた『Oh so shake it!』など、TeXi’sはこれまでも独自の視点で現代社会を見つめる作品群を発表してきた。

そんなTeXi’sが今年6月より始動させたのが3部作『ファジー』である。

「男女二元論が生み出してしまっている加害性」について考える通年プロジェクトで、

その1作目が前述の『theirs』、そして、「女性の背負っている加害性」をテーマとしたとなる2作目の『ours』(作・演出:テヅカアヤノ)が8月にSTスポットで上演された。

 

前作『theirs』は「家族レイヤー」、「解体作業レイヤー」、そして、「劇場レイヤー」の主に3つのレイヤーで構成されており、『ours』でもまたこれらは踏襲されていた。

「家族レイヤー」では俳優たちはみんな子どものように振る舞い、同じ家に住む、いわばままごとごっこのようなやりとりが展開されていく。

対して「解体作業レイヤー」では家を解体する作業員、つまり大人のやりとりが描かれる。その隙間隙間にカットインするように「劇場レイヤー」が差し込まれ、俳優が役を脱して、目の前の観客と同じ地平で起きていることを見つめていることが伝えられる。

そのため、「家族レイヤー」で家が壊されることを嫌がる子どもを演じていた俳優が、「解体作業レイヤー」では解体を率先して進める大人を演じていたりする。

そんな風に複数のレイヤーを同じ俳優が演じることによって、加害と被害が表裏一体であること、ひいては誰しもが持ち得る加害の可能性が浮かび上がり、さらにそれが「鑑賞」を飛び越え、一人ひとりに起こりうる「自分事」として観客に手渡されていくのである。

 

当日配布されていた「みかたのススメ」によると、みちち(古川路)、

なぎぎ(渚まな美)、もええ(南風盛もえ)、つむむ(原田つむぎ)、さとと(宝保里実)の5人の登場人物は、それぞれ「わかりにくさ」、「怒り」、「曖昧さ」、「苛立ち」、「無邪気」と異なる役割を担っていたという。

上演のみでぴたりとそのことを言い当てることはできなかったけれど、一人の人間に宿る様々な気持ちやその凹凸を分け合うように時に歩み寄り、時に反発し合うその姿に私もまた相乗するように、時に戸惑いを、時に怒りを抱えながら目の前で起きるやりとりを見つめていた。

『theirs』と『ours』は所狭しとものが溢れかえる舞台空間だけでなく、戯曲のベースにもまた大きな差異はないように感じられ、私はそのことにまず驚いた。

そして、「同じ構成でやるんだ」と驚いている自分の中に早くも「男女二言論が生み出してしまっている加害性」の芽のようなものを見つけてしまったのであった。

「女性の背負っている加害性」がテーマになることによって、なぜか当然のように全く別の物語や世界が描かれるのであろう、と私は思い込んでいたのである。『theirs』で、前述した痛切な体感を得たにも関わらず、私は性差を問わず共有しなければならない問題から知らずのうちに逃れようとしていたのかもしれない。

そう感じた途端、舞台上で描かれていく風景の切実がより迫ってくるような感触があった。そして、その切実に、私はどうしても「女性の背負っている加害性」よりも、その被害性を色濃く投影してしまうのであった。

散りばめられる怒りや諦めの言葉にその都度強く感情移入してしまう。

『theirs』よりずっと『ours』の方が観ていて辛いのは、やはり私が女性だからなのだろうか。

私はそこから逃れられないのだろうか。

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しかしながら、男性と女性の間に抗いようのない差異があることもまた事実である。

それは例えば、月に一度赤すぎてもはや黒い血を股から流し続ける時間があるということ、SEXの際には否応なく立ち入られる側であり、そのことによって妊娠をする可能性のある体であるということ。また、そういったバイオリズムによって、心と体の融通がきかなくなること。

そうしたことがやがて娘の体や心にも起きてしまうことが、それによって苦しんでしまうことが私は今から怖くて仕方がない。

劇中で、天井に吊るされた、小さなボールの入ったネットが叩き壊されて、その中から羽根がハラハラと落ちてくるというシーンがあった。

それは、妊娠のために準備された子宮内膜が剥がれ落ちていく様にも見えたし、卵巣の中に発生したいくつもの卵が排出される様にも見えた。

本人の意思に関わらずそうした身体を持っていること、その逃れられなさ。

女性であるがゆえに、女性の身体であるがゆえに強いられたことやできなかったこと。

それらをまさにこんな風に叩き割ってやりたくなるような思いをしてきた自分にとって、その風景をそれ以外に捉えることは難しかった。

女性の背負う被害よりも加害を見つめるということが困難だった。

それが私の正直な感触だった。これは私が一人の女性として、そして一人の親として向き合わなければならない課題でもあるだろう。

『theirs』を通じて「男性の背負っている加害性」を息子に見出してしまったように、女性にも、10歳の娘にも背負っている加害性があるということを私はもっと自覚しなくてはならないのだと思う。

「被害の経験」という自室に鍵をかけ、その蓄積で散らかった部屋に隠れるように閉じこもっている自分に自分自身が気づくような心持ちだった。

「みんなちょっとずつずるいんじゃない?」

そんな劇中の一言がいつまでも自分の中に残り続けた。

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『ours』という作品は抽象的ながらも決して諦めずに、女性も等しく持ち得る加害性を問いかけていた。

子どもたちはままごとの他に度々「りんごごっこ」という遊びに興じており、それはりんごをより解像度高く形態模写できるかを競うゲームのようだった。

その中で、さととが「僕はりんごの本質」と言って喉仏を指差し、「目立たないだけで、ある」、「みんなにあるからね、これが罪」といったセリフを言うシーンがある。

ハッとさせられた。喉仏には「アダムのりんご」という別名があるが、男性に顕著に現れるだけで女性にもそれはあるのだ。

女性にしか起きないことだけでなく、目立たないだけで男性同様に女性も持っているものを本作は確かに手渡していた。私がそれをすぐに受け取れなかっただけで。

 

劇の終盤、「家の解体」と「ごっこ遊び」を往来した果てにあったのは、「ロケットの発射」であった。率先してロケットに乗る者もいれば、最後までそれを拒む者もいた。

「早くここから出たいね」「うん、早くここから進みたい」

そう言って宇宙へと飛び立とうとする人々に「わかる、わかるよ」と共感を寄せながらも、それでは閉じこもる部屋の大きさが変わっただけで、何も終わらず、そして始まらないのだ、ということが忍ばされた描写であるようにも思った。

 

前作『theirs』と本作『ours』を経てTeXi’sが向かうのは、それぞれのキャストが混ざり合った形で12月に上演されるシリーズ最終作『yours』である。

そこにはこれまでとはまた異なる景色があるだろう。そして、それを見届けないことには、私もまたロケットに乗るか否かを決められないのだ。

できるなら、遠い宇宙ではなくこの地球で新しい朝を迎えたい。

そんな祈りを私はまだやっぱり捨て切れずにいるのだから。

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